
大谷1号墳
真庭市の南端部に位置する北房地域には約450の遺跡があります。このうち約250が古墳です。弥生時代に続く古墳時代は、3世紀中頃から7世紀にかけて約450年続きました。北房ではこの古墳時代を通じて連綿と古墳が築造されてきました。
古墳時代は一般に、前期・中期・後期・終末期の4期に区分されます。前期に築造された古墳として、3世紀後半の荒木山東塚古墳(前方後方墳)と4世紀の荒木山西塚古墳(前方後円墳)があります。荒木山西塚古墳は、令和4年度に第1次発掘調査、令和5年度に第2次発掘調査が行われました。
終末期(7世紀)はほぼ飛鳥時代に相当しますが、この終末期の古墳には、大谷1号墳と定古墳群(定東塚・定西塚・定北・定4号・定5号墳)があります。全て墳形は方墳です。これら6基の古墳は、平成20年(2008)3月に、「大谷・定古墳群」として国の指定史跡になりました。
【発掘調査】
北房の上中津井地区にある丘陵地の見通しの悪い傾斜に独立して造られている大谷1号墳の調査は、昭和63年(1988)の第1次から平成5年(1993)の第3次発掘調査まで行われ、平成7年(1995)に現在の外観に復元・整備されました。
【築造時期】
墳形・石室・副葬品そして須恵器の長頸壺等から7世紀後半(西暦670~680年)頃の築造と推定されています。
【墳形と古墳規模】
墳形は2段の基壇と3段の墳丘をもつ正面観5段築成の方墳です。1段目基壇幅は22.7m、墳丘1段目幅は12.9m、総高さは7.3mです。7世紀の古墳で規格的な5段積み構造を持つものは天皇クラスの陵墓しかなく、全国でもほとんど類例のない方墳とされています。
墳丘南面に開口した畿内形の横穴式石室は「切石積み」で、全長が6mあります。玄室には須恵質の四注式家形陶棺、また、鉄釘が出土したことから木棺も置かれていたと推定され、二体一室の併葬の形がとられていたようです。
石室は盗掘されていましたが、奥壁に沿ったところに金銅装環頭大刀(双竜環頭大刀)、その鞘尻の下に、朝鮮半島でサルポと呼ばれる斧状鉄製品の鏟が置かれ、それより少し高い位置には鏟形の金銅製品がありました。金銅製品は類例のないもので、全長10cm、方形の身部の幅は7cmで、非常に精巧に作られています。儀杖の先端として用いられていたとされ、差し込まれていた柄の一部が遺っています。金銅装環頭大刀などとともに権威の象徴としての意味を持っていたと考えられます。
金銅装環頭大刀は、柄頭から鞘尻までほぼ完全に遺る稀有なもので、全長が約110cm、金銅製品と同様、銅地に金メッキが施されています。柄頭の環状(輪状)の中には、左右一対の竜が向かい合って玉を咥えている姿をあらわした装飾が施されています。
この大刀は、西暦590~600年頃の製作と推定されていますが、大谷1号墳の推定築造時期(670~680年)と70年以上の開きがあることから、数世代に亘って伝世された大刀と考えられています。
金銅装環頭大刀と金銅製品は、平成3年(1991)に岡山県の重要文化財として指定されました。現在、「北房ふるさとセンター」で四注式家形陶棺(蓋はなし)とともに展示されています。
【被葬者】
大谷1号墳は5段築成の方墳という、天皇陵に匹敵するレベルのものです。また、石室は畿内形の切石積み横穴式石室、さらに、金銅装環頭大刀・金銅製品といった豪奢な副葬品などから、畿内と非常に密接に結びついた古墳であると考えられています。
こうしたことから、被葬者は大和政権から派遣され、現在の広島県東部から兵庫県の西部までの広範囲を掌握し、天武8年(679)にその任の途中で病死した、吉備大宰石川王説があります。いずれにしても、646年の「大化の薄葬令」以降の7世紀後半に、これだけの古墳を造れるのは非常に限られた階層の、高位の人物であると考えられています。



