すげーのー、谷尻遺跡(2024年10月26日~12月7日)

北房ふるさとセンター開館40周年・谷尻遺跡発掘50周年を記念して、特別展がふるさとセンターで開かれました。当保存会も主催者 (西の明日香村コンソーシアム)の一員として、準備や運営に関わりました。期間中に行われた説明会も当会々員が担当しました。

 

記念講演「谷尻遺跡発掘思い出話」

元古代吉備文化財センター所長(当時の発掘担当者)

高畑知功先生

11月24日(日)、北房文化センターで谷尻遺跡発掘特別展の記念講演会を開催しました。講師は、50年前の発掘調査担当者高畑友功先生。直接担当された方ならではの苦労や喜びなども交えたお話で、会場場いっぱいの参加者も興味深く聞き入っていました。

(参加者の寄稿)

発調査に直接携わられた先生のお話は、50年たってもあせることのない熱い思いと詳細な記憶が、丁寧でたくさんの資料とともに伝わってきて、引き込まれ通しの時間だった。

当初、とりあえず2人で始まった発調査が、試し困りの段階から「すごい、大きい、大変な遺跡だ」という予感から、延べ730人を投入しての調査となったこと、予算が無く、電気も通じていない部屋での生活の苦労話など、思い出という言葉ではくくりきれない、正に調査報告そのものだったように思う。

中でも「遺跡は壊すもの。残すの写真と記録」という言葉が忘れらられない。道路工事があるから、土地の開発があるかいうような理由がないと発掘調査ができないことは、致し方ないとは思いながら、もったいないことと思ってしまう。 約11,300年前から始まった谷尻遺跡。土器や石器など多数の出土品が「谷尻式」と命名されていることは、今回初めて知ったことの一つである。縄文の時代から人々はこれらを使って何をし、何を食べ、どんな暮らしを営んでいたのだろう。そして、一緒に出土した近畿(大和)や山陰(出雲)、四国(讃岐)の土器。人や物の流れ、文化の結節点としての北房の意味。想像するとわくわくすることがたくさんある。更に備中川の氾濫や火事にあった住居、何代にもわたる積み重なった住居跡、もがりの家…。素人には、あの土を掘っていくだけで、何故そんなことが分かるのだろうという素朴な疑問もある。たくさんのことが判明する、判明させられる、発掘調査の意義を改めて感じている。

備中北部最大の集落遺跡、谷尻。そこで暮らした市井の人々も地域を治めていただろう有力者も、もしかすると石川王?も、全ての人が今の北房に続いている。

今回、北房ふるさとセンターで開催されている特別展は「すげーのー、谷尻遺跡」だが、この講演を受けて抱いた私の感想は、正に「すげーのー、北房!」に尽きる。そしてもう一つ、今後この遺跡と、私を北房に導いてくれた荒木山の古墳群にある何らかの関係性が明らかになったら、なんて素敵なんだろうと密かに思っている。

余談ながら、この日は岡山市民文化大学の本年度最終日。往年の青春スター(死語ですか?)中村雅俊さんの講演を聴く予定だった。彼が「ふれあい」で歌手デビユーしたのは昭和48年。 奇しくも谷尻遺跡の発掘が始まった年である。当時小学6年生だった私が初めて自分で買ったレコードが「ふれあい」だった。

同じ50周年。どちらの会に参加するか。躊躇することなく、北房を選んだことへのご奥美、「青い巴ちゃん(巴型銅器)」との出会いに気をよくし、自分を褒めながら、北房文化センターを後にした。

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講師の高畑知功さんは、元岡山県古代吉備文化財センター所長で、50年前に谷尻遺跡発掘調査をただ一人だけ全期間を通じて担当された人物です。

「谷尻遺跡発掘思い出話」と題してのご講演内容は、 実際に経験したからこそ話せる逸話や苦労話、そして50年という時を経て、おそらく地元住民が始めて知る谷遺跡の全体像、さらにこの遺跡が持つ歴史的な位置付け等に関して、極めて興味深いものでした。当日は市内外から七五名の参があり、熱心に聞き入っていました。

 谷尻道路は,第一次調査が昭和48(1973)年10月から12月、第二次調査は49年4月から50年4月、そして第三次調査が6月に実施されました。

 発掘場所は、中国縦貫自動車道建設予定地に沿って、 西は旧町道の谷尻線付近から東は中田原線までです。作業は西側の一区から東端の六区まで、区割りをして行われています。五区の南側が後述する萩原工業(株)付近に相当します。

 北房と有漢の境界となる南側の山から徐々に低くなり、中川に近づくと「低位台地」になります。発掘現場は、この低位台地上網中川の間に形成された氾濫 (洪水時に河道から氾濫する範囲)である「低地」から成っています。一、二、三、五区が低位台地、六区が低地です。四区は西谷方向からの谷筋で、原にあたる区間です。

当時の中国縦貫自動車道建設に伴う発掘現場としては、旧北房町内とその附近では、東から日落合町一色の「宮の前遺跡」、五名の「備中平遺跡」、上水田の「谷尻遺跡」、下呰部の「桃山遺跡」、「植木遺跡」、「空遺跡」などがありました。

以上の概要をもとに、以下、講演内容を順にたどっていきたいと思います。なお()内は筆者による補足説明です。

谷尻は、出版物等では一般に「たにじり」とあるが、当時、地元作業者にアンケートをとり、「たんじり」 と呼ぶこととし、報告書のタイトルもルビをふり、谷尻(たんじり)遺跡」とした。

谷尻遺跡の発掘は、中国縦貫自動車道建設に伴うもので、遺跡を残すことはできないため、写真と図面と説明文で記録し保存することを目的とする調査であった。

この自動車道建設に伴う岡山県内の同様な発掘は、 60カ所以上(62カ所)あり、東側から数えると(最初は、旧作東町の高木遺跡) 谷尻遺跡は30番目になる。県内全体としては、昭和44年から52年まで、足かけ8年に及ぶ長期の発掘調査で、岡山県教育委員会文化課が担当した。

谷尻遺跡の場合、萩原工楽(株)の北側にある桑畑に弥生土器と古墳時代の土師器が散布していることは以前から知られていた、 昭和48年から試掘を始めた。調査は西の端の谷尻線から東の端の中田原線で、長さ約600m、幅約40mの範囲である。

(第一次調査の)3ヶ月間の作業によって、ここは大変な遺跡になることが予想された。しかし、昭和49年度からの本格調査では、2名の調査員、期間は1年間で終了する予定となっていた。期間の延長はできない中で作業を進めていくと、 次々と遺構が出てくるため、同年11月頃作業員を増やすことにした。その頃、備中平遺時の作業が終了しており、そこの作業員15名と、県の文化課職員にも可能な範囲で加わってもらったが、結局1年間では終わらなかった。 この段で予算が尽きたため、県職員の新人を送り込んでもらったが、 昭和50年4月から6月の終了まで、電気も水もないプレハブ小屋でろうそくを灯しながら仕事をした。

調査日数は実働346日、作業員は延べ7,312名に及んだ。この遺跡から283の遺構、遺物は40×70×15㎝のテンバコ、約260箱分が出土した。実際に発揺した面積は14,411㎡であった。真庭市内では最大の発掘調査面積であろう。

以下、時代を追って説明していく。縄文時代は早期、 後期晚期の土器が出土している。早期の土器は、約9,500年前のもので、米粒が並んだような文様がある。粘土が生乾きのとき、 器具を使って根を付けた土器(押型文土器)である。なお、前期の土器は谷尻遺跡からは出ていないが、上水田の洞穴(地蔵ヶ淵)から人骨とともに出土しており、約6,900年前のものとされた。

最も多くの出士があったのが講文晩期であり、約3,500~3,000年前の土器片45点とともに石器が60点まとめて1カ所(一区、No130土坑)から出土した。  石器は、備中川の河床などにもある緑色片岩で作られた石、その他の石器 (スクレイパーまたは石鎌とも呼ばれるもの)は、サヌカイトと呼ばれる讃岐石で作られている。岡山県下で出土したサヌカイトの半は、香川県坂出市の金山 (金山の東斜面)産といわれている。この石器の刃先は真っ黒になっていた。当時はそれが何かということは分からなかった。その後、プラント・オパールと呼ばれるガラス質の珪酸体(植物の表面細胞にある物質で、イネ科などに含有量が多いとされる)であることが分かった。したがって、これを分析すれば、この石でどんな植物を切ったのかが判明するそうである。

当時、「縄文農耕」という言葉が流行っていた。両文晩期にこの地域で稲作をしていた証拠はないかと、出土した土器で籾殻の痕跡を詳細に調べたが確認できなかった。 弥生後期の土器片も出土している。岡山市の高塚遺跡の貯蔵穴などから、計25枚の貨泉が出土している。 泉は、前漢と後漠の間にあった所という時代の王葬という王が制定した貨幣である。西暦14~40年の間に鋳造された(円形方穴) 貨幣で、弥生後期に伝わったものと推測されることから、この遺跡の土器と比定することにより、谷尻遺跡から出土した土器を弥生後期のものと推定できる。

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